被害者の声
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性犯罪被害者の家族の思い
公益社団法人被害者サポートセンターおかやま
匿名
「犯罪被害者の声第11集より」
前略、義父殿。あなたは2012年3月、岡山地裁から言われましたね。
娘に15年もかけて「人格を踏みにじる卑劣極まりない」犯行を続けた、と。そのことにより懲役10年の判決を言い渡されました。今、あなたはどのように罪と向き合っておられますか。
あれから彼女は養子縁組の解消をしました。戸籍上関係なくなったとしても、あなたという男を許すことはできません。許すべきでないと思っています。
さて私が彼女と出会った当時は、義父からの性被害を受けていることなど想像すらしていませんでした。彼女からそんな告白を受け、戸惑わなかったといえば嘘になりますが、私は義父の彼女への性行為を止めさせようと行動を起こしました。闇に入り込んでいる彼女を現実に引き戻そうとするのですから、並大抵のことでは上手くいかないだろうとわかっていました。半分が一か八かの賭けのようなものです。
「待ち合わせ場所に来ようが来まいが、あなたを迎えにいく」と伝えました。ドキドキしながら大阪から岡山に向かったとき、彼女が待ち合わせの場所で待っていてくれたことは、現在のかけがえのない光ある生活へと続く始まりであったと思います。
その後、彼女との義父から遠く離れた生活が始まり、彼女の苦しみは解かれたと思った矢先にフラッシュバックが始まりました。不眠や悪夢、玄関の向こうに義父がいるのでないかという恐怖と混乱。一人での外出もままならなくなりました。
子どものころから義父に洗脳され続けていた彼女にとって、義父のいる家を出たことはとても恐かったことだと思います。私は彼女が話す義父との生活についてただ聞き続けるしかありませんでした。
彼女の人生の大半についての話を聞くので膨大な内容でしたが、側で聞いていると話の内容があちらこちらと飛び回ります。時に義父を絶賛するようなことを言ってみたり、時に辛い性行為のことを話したりと、彼女の状態は支離滅裂でした。そのうちにそばにいる私がこんな状態の彼女をこのままにしておいて良いのかと不安に襲われ、私が仕事に行っている間、彼女はどうしているのかと不安になりました。
仕事中も様子を知るためにメールや電話を山のようにしていました。それでも仕事が終わって帰るときは、彼女がちゃんと家にいるのか本当に不安の毎日でした。
こんな日々の中、彼女と相談し、当時住んでいた町の警察署に被害相談をしました。帰ってきた言葉は少しは同情してくれるものでしたが、最終的には「ここでの話でないから地元の警察に相談して」とか「気持ちで乗り越えるしかないよね」などと言われました。勇気を出して行動を起こしてみましたが、現実の言葉に打ち砕かれそうでした。私は彼女の受け続けた苦しみや失われた時間をこのまま簡単に終わらせることはできませんでした。
何となく彼女はこのままでは死を選ぶかもしれないとさえ感じていました。粘り強く声かけを続けたのち、彼女の一大決心により、地元の警察まで直接相談に行くことができ、VSCOまで繋げることができました。少しですがホッとした瞬間でした。
その後は毎月のように、警察・検察、裁判所へと遠路3時間かけて、3年間往復しました。交通費、宿泊費と経費負担も多く、また心身の苦痛、負担も相当ありましたが、2011年3月に裁判を終えることができました。裁判官の懲役10年と言った声は今も忘れることはできません。今までの苦労が報われ、それが結果として現れたことに2人で喜びの涙を流しました。
ただ、裁判が終わっても彼女にとっての苦しみのすべてが解き放たれることはありません。裁判後、当事者として匿名の条件で取材、記者会見をすることになったのですが、会見の準備を待っていたときに、私たちの前である公共放送の記者が上司と電話でもめていたのです。記者は加害者である義父の実名報道をするべきと主張し、会見会場の前で大きな声で話していました。今思えば、女性記者でしたので正義感でもって記者会見に臨むつもりだったのでしょうが、私は会見時、身内の中での犯罪はその家族の未来、生活もあるわけですのでマスコミにはそのことを深く考えてほしいと訴えました。これも、二次被害の一つであります。
現在、義父は刑務所に収監されていますが、彼女も含め彼女の家族は義父に対しては憎しみしか残りません。刑期も年月がたてば終わりがきて、義父はこの社会に戻ってきます。その際、いろんなトラブルや過ちが起きないように備えるしかありません。事件は解決しても終わりは見えないのです。
家族やパートナーが被害者支援するのは一番そばに居るがゆえに、とても難しいことです。私はある意味彼女に苦しい思いをさせましたし、また自分自身も辛い思いをしました。
皆さんがもし身近な恋人や友人が身内との性行為をしていると知ったとき、どうしますか。自分の手を差し出すことが難しいなら自身は撤退して他に託す勇気をもってください。表面的なことだけでなく、その人の根深い所まで関わることもあるので、もしかしたら被害者自身から恨まれるかもしれませんし、自身の精神ももたないかもしれません。回避する勇気と適切な機関に繋げる勇気があればそれでいいと私は思っています。
※お寄せいただいた原文のまま掲載しています。
犯罪被害者に必要な支援
公益社団法人被害者サポートセンターおかやま
T・O
「犯罪被害者の声第10集より」
事件が起きたのは約6年前の2010年2月25日の午後5時半ごろで、場所は私の自宅です。
その時、私は仕事で家にいませんでした。被害に遭ったのは、私の妻と、長男と次男の3人です。加害者は私の弟です。
当時、私の家族が母屋に住み、両親は離れに住んでいました。弟は離れが狭いので、母屋の2階の1室を使って生活していました。弟はパチンコや競艇といった賭けごとが好きで、仕事は1年のうち半分ぐらいしかしておらず、賭けごとで負けると両親に暴力をふるっていました。
両親はその暴力に耐えきれず、なぜか、私たち夫婦にその暴力を向けさせるために、「本当に憎いのは兄夫婦だ。」と、母親は弟にしきりに話していました。
弟はやがて私たち家族を敵対視するようになり、家の中で騒音を出したり、あばれ、威嚇し、嫌がらせを繰り返すようになりました。弟は光熱費も払わず、共働きだった私達夫婦が払っていました。光熱費は多い月で電気代が38,000円、水道代は上水道の使用だけで20,000円以上請求がありました。また、弟は車のローンも払わず、妻は自分の定期預金からそのローンを払っていました。
こうした生活が続き、私達夫婦は次第に光熱費や税金、子どもの保育料を滞納するようになっていきました。生活費を切り詰めようと、風呂の水は一週間に一回取り替えるようにし、トイレの水も全員が用を足してから流すようにしていました。それでも水道代は20,000円を超えました。
話し合いをすればいいじゃないかと思われるかも知れませんが、とても、話し合いができる状態ではありませんでした。弟が両親に激しい暴力をふるっていたため、その矛先が私達に向かってくるのが怖かったのです。こうした状態が4年以上続きました。でも、それが殺人事件になるとは、思ってもいませんでした。
事件は2010年2月25日の午後5時半ごろ起きました。私は仕事からまだ帰っていなかったのですが、子どもたちから聞いた話では、弟が突然家の中に入ってきて、私の妻を何度もナイフで刺したのです。それから、子どもたちの方へ行き、「おまえらも、殺してやる。」と、言いながら、ナイフを振り回してきたそうです。そして、子どもたちはそれぞれ20針以上縫うけがを負わされました。その後、弟は灯油をまいて、家に火をつけました。火が燃え広がるとき、長男と次男は、別々に逃げ出していて、長男は、近所の家に助けを求めていました。
その時妻は、自力で家の外に出て、当時7歳だった次男の名前を呼んでいたそうです。家にいた家族三人がばらばらになり、特に、まだ小さかった次男が無事かどうか、確認したかったのでしょう。
私が帰宅したとき、妻はすでに意識がありませんでした。それでも私がそばに行くと、妻が顔をこちらに向け、何かを語りかけているようでした。子どもたちの無事を確認してほしかったのか、弟のことを話したかったのか、私に向かって、「お父さん」と、言っているようでした。妻はその後、出血多量で死亡が確認されました。
子どもたちは一番大切な母親がナイフで刺されるのを見て、自分たちも切りつけられました。命は取り留めましたが、頭や背中に傷が残り、また、目の前で母親をナイフで殺されていることから、精神的に苦しめられ、PTSDという精神障害に苦しめられるようになりました。
いまだにその恐怖から逃れることができず、あのときの様子が夢に出てくることがあるようです。妻が死んだことは、長男には病院で治療を受けているときに私が話しました。「ママ、死んだん?」と、聞かれ、「ああ」と、答えると、長男はずっと泣いていました。でも、7歳だった次男にはとても言えませんでした。治療中、私が次男に近づくと、「ママは?」と、聞かれ、「ママは、違う病院にいるよ。」と、私が言うと、次男は、「早くママに会いたいな。」と言っていました。
事件の翌日、テレビや新聞で大きく報道されました。いずれは話さないといけないと思い、次男にも「ママは、死んだよ。」と、伝えました。次男は30分ほど、発狂したように泣き叫んでいました。7歳だったのですが、次男は母親の死を小さいなりに分かってるようでした。
事件後、私と子どもたちは、葬儀の際に妻と対面しました。妻は髪の毛が長かったのですが、その髪の毛がなくなってしまっていました。
検体の際、剃られたのだそうです。美容師だった妻は次男に、「小学校の2年生になる時に髪を切ろうね。」と、話していたのですが、母親が死んで、次男は髪を切れなくなりました。次男は後頭部と手を切られており頭の傷口の治療のとき、医者から、「髪の毛、切ろうかな。」と、聞かれると、「切りたくない」と、答えました。母親が切ってくれると約束した髪の毛を誰にも切って欲しくなかったのだと思います。
次男は現在も髪を伸ばしたままで、お尻のあたりまでになっています。
事件の後、私たちは精神的に苦しめられています。長男は火のついた家に弟を探しに行こうとした際に、ママから「行くな」と、言われたときの光景が、突然、目の前に広がり、フラッシュバックに襲われることがあります。髪の毛を伸ばしたままの次男は、「ママに会いたい。天国には、ナイフで刺したらいけるの?」と、言うことがあります。ナイフで自分を刺せば、ママに会えると思っているのです。次男は、人の死は、ナイフで刺すことだと思っています。
逮捕された弟は、送検され殺人と傷害罪と放火で起訴されました。
弟が妻をナイフで刺したときナイフの刃が折れ、折れたナイフで子どもたちに襲いかかったことで、「生命に対する危険性はなかった」と、検察が判断したためです。子どもの背中には、大きな傷跡が残されました。私はただの「傷害」ではなく、「殺人未遂」にしてほしいと、思っていました。しかし、あのとき、ナイフの刃が折れたことで、子どもたちは、けがですんだのです。今は、妻は身を挺して子どもたちを守ったのだと思います。弟の裁判は「裁判員裁判」で行われました。
裁判で、検察は弟に懲役27年を求刑し、判決は求刑とおり、懲役27年になりました。これは、岡山県内の裁判員裁判で、その当時では、最も重い判決でした。でも、裁判員を務めた人からは、この刑は「軽い」と、答える人が何人もいたそうです。私も軽いと思っています。
この事件の精神的な苦痛はとても言葉では表現できません。犯人が弟であるという事実にも苦しめられています。精神的な苦しさは、なくなることはないと思います。事件後、精神的な問題に加えて、経済的な問題がありました。手元に現金を約7000円しか持っていませんでした。
ラジオのニュースで、自宅は全焼、と聞いていたので何も残っていないと理解していました。そのため、入院費が払えるか心配になり、病院でこれ以上お金は使えないと思い、有料の付き添いベットは借りずに、椅子に座って寝ていました。食事は、付き添い食はなく、買うこともできないので、子どもたちの残した物を食べていました。銀行のカードは、妻が管理していたのと、殺人事件のため、銀行口座を凍結され、お金を引き出すこともできませんでした。そのような状態で、お金が使えないこととなり、これ以上入院して治療していると、支払が滞ると思い、病院のドクターからは退院は早すぎると止められましたが、病院を早めに退院しました。しかし、子どもの傷口が開き出血がひどくなったので、また、病院で治療する始末でした。
放火された自宅に帰ることもできず、焼け残った離れに住むことにしました。放火された家のローンがまだ残っており、家財道具も焼けてしまい、できるだけ出費を少なくして生活しなければと考えました。
今までは妻と共稼ぎでしたが、妻の収入がなくなりました。食事を作る人がいなくなり、料理をしたことのない私が作るようになりました。
インスタントラーメンのようなインスタント食品ばかりで、食べさせることも満足にできない状態でした。精神障害の治療は、治療費がかさむため、満足に治療ができませんでした。勧められても治療を断っていました。生活が少しずつ落ち着いたころから、カウンセリングや精神治療を再開したのですが、事件後、本当に困っていたときに、ちゃんとした治療を受けさせてやりたかったと、後悔しています。治療費の負担がなければ、早めに退院しないで、傷が完全に治るまで治療させてやることができたと思います。精神的な治療も、事件直後にきちんと治療をしていれば、症状が軽くて済んだのかとも思います。
そう思うととても辛く、子どもたちに申し訳ない気持ちでいっぱいです。
事件後、家財道具も買うことができず、布団は寄付して頂いたのですが、この時期、3月はまだ寒く、焼け跡から、電気じゅうたんを見つけ、洗濯したら使えたので、このように、使える物を手当たり次第に洗濯しました。当時は、焼け跡の掃除をするのは、私達3人以外いませんでした。次男はまだ小さいので、私と長男のふたりで、私は会社から帰ってから、長男は、学校から帰ってから、使えるものは、手あたり次第洗いました。そのため、休日はずっとこの作業でした。家が焼けたといいますと、全部焼けたように思いますが、焼け残ったものもありました。ただ焼け残ったといいましても、もう真っ黒で、ほとんど灰の中に入ったような状況です。でも、洗って使えるものがあれば使うしかないと、半年以上そうしたことを続けていました。
家財道具を運ぶのに引っ越し業者を頼んだのですが、家具が油や煙で真っ黒で「運べない。」と断られ、それからは、自分たちで洗ったり、拭いたりして運び出しました。子どもは、溶けたゲーム機を一生懸命拭いていました。自分の大切なものをこんな形で失った子どもをとても悲しく思いました。休みの日には、こういった作業がずうっと続きました。辛い毎日でした。
次男は精神的ダメージが大きかったので、学校の送り迎えが必要となりました。送り迎えのため、思うように会社に出社できなくなり、収入が激減しました。犯罪行為によって、生命・身体を害された被害者や遺族に対しては、犯罪被害給付金制度という国からの見舞い金が支給されるのですが、私の場合、加害者が私の弟であったため、支給対象になりませんでした。その後ですが、岡山県の犯罪被害者支援団体の被害者サポートセンターおかやま(VSCO)や、全国犯罪被害者の会「あすの会」の方たちと一緒に犯罪被害給付金法のことを煮詰めて参りましたところ、私の子どもに対しては、傷病手当が三分の二、やっと支給になっただけでした。私の親族は他人状態で、誰も助けてくれる人がいませんでしたので、大変ありがたいことでした。
この事件で、私達は大変大きな傷を負いました。きっと消えることはないと思います。しかし、子どもたちのためにも、殺された妻の分もしっかりと子どもたちを育てていかなければ、と思っています。でも、どうしようもない場合もあります。犯罪被害に遭って、さらに経済的に苦しい状態に陥ったら、自分一人の力での回復はかなり難しくなると思います。被害者は事件の苦しみと経済的生活と精神的な苦しみと、二重、三重の苦しみを抱えて、その後の生活を送らなければならないと思います。そのようなことがないように、カウンセリングや治療に関する費用の心配はなくして欲しいです。犯罪で困って、経済的に苦しくなった被害者に対して、せめて衣食住が足りる程度の補償くらいは、国に整備して欲しいと思っております。
周囲の支えですが、事件後に、勤めている会社や医療機関、学校関係の方からしていただいたことについて、お話をいたします。この事件の直後から様々なことが起きています。放火され、住居の心配、葬儀の準備、警察・検察での取り調べ、そして子どもたちの精神的なケアや、生活で突然に仕事を休まなければならない状況が続きました。
放火で家を失ったので、寝泊りする家がなくなったのですが、当初、子どもの治療のため、10日間ほど病院で寝泊りしていました。その後、警察の方が、住むところとしてシェルターを貸してくれました。それは、1週間ほどで期限が来ましたということで、その後住む場所がなくなり、自分の勤めている会社の保養所をお借りしました。ただ、保養所も、予約が入ってないときだけということで、3日間だけしか住むことができませんでした。
その頃ですが、被害者サポートセンターおかやまVSCOと、つながりを持つことができました。県警から、「もう、あなたの生活をみていたらどうにもなりません、VSCOに連絡してください。」と、言われました。私はどういう団体かわけがわからない状態で、VSCOに電話させていただきました。それから、VSCOから弁護士や精神科への橋渡しもあり、まず、子どもの治療をしていただきました。治療費のほうも、VSCOから全額負担していただき、大変感謝しております。
会社にはいろいろ配慮してもらいました。検察庁の事情聴取や、子どもの世話、病院の受診、学校への送迎があるときは、夏季特別休暇などの年次休暇、特別休暇を使い、欠勤することなく乗り越えることができました。当時の状況では、会社も辞めざるを得ないかとも思いましたが、子どもの学校の送迎時間に合わせて、フレックスタイムという、許可制のものですけど、そういうものを使いました。出勤を15分ずつ遅らせてもらい、終業も、6時の学童保育の終了時間に間に合うように配慮してもらいました。私が社内で講師をしている社内教育の講演も、落ち着いてからと、延ばしていただきました。また、出張も月に何度か入っていましたが、行かなくてもいいように調整してもらいました。もちろん、会社を休んだ分給料は減らされます。注意もされました。でも、会社としてできる限りの融通を利かせてくれたと思います。罹災見舞金をいただいたり、会社の上司の呼びかけで、火事で失われた衣服や布団といった日常生活に必要なものをカンパしていただきました。仕事を休むことで、同僚に迷惑をかけたと思いますが、同僚の助けもあり、仕事を辞めることなく、今も続けることができています。
また、事件後お世話になった病院の方々、その方々が中心になって、病院内でカンファレンスという、病院内の協議会を開いていただきました。事件当時、病院に行きますと、医師、看護師、カウンセラーの方々が大勢で一度に押し寄せてきます。どの方が初対面で、誰がどの方か、全然わかりません。そのうえに、警察の捜査関係者が来ます。
家が放火されたので、消防の方もやってきます。初日だけで、40~50人にはお会いしました。病院の方にお話しして、「私はどの方とお話ししたのでしょうね・・・」一度お会いしていても、誰がどなたかわからない状況です。こんな混乱を避けるために、連絡協議会というものを開いていただきました。医師、精神科医、看護師、医療機関関係者、カウンセラー、児童相談所、警察の被害者支援係、県警の県民応接課、教育委員会、子どもの学校関係者、VSCOのメンバーなどが集まって、情報の整理や、これからの支援について話し合いを持ちました。これは大変ありがたいことでした。
その後、このカンファレンスは、倉敷市の教育委員会とVSCOに引き継がれ、全6回開かれました。VSCOの方はいまだに子どものことをかなり気にかけてくださっています。とてもありがたく思っています。
子どもたちの支援については、児童相談所の保護下で、1か月、一時保護してもらいました。というのは、事件がおきて近所でも様々なことが起きました。被害者のことを良いように言ってくださる方ばかりではありません。「おめぇんとこの家族は・・・」とか、近所の方が自宅の前で暴れました。その時、子どもがフラッシュバックをおこし、あの事件のことを思い出して、「もうここには住みたくない」と、緊急に児童相談所に保護していただきました。その保護の期間が、約1か月間ありました。その後、子どもが学校に行きだして、学童保育で私が迎えに行くまで預かってもらえるようにと、学校側からの配慮がありました。また、市役所の方からは、事件後に障害福祉手帳の認定手続きをしていただき、精神障害者とはなりましたが、障害を持つということは大変なことではありますが、それでも、市役所の方には、いろいろ手ほどきをいただき、お世話になりました。また、児童扶養手当もいただけるようになりました。これらも、VSCOの支援でつながりがあったからです。
また、全国犯罪被害の会『あすの会』の弁護士とVSCOの働きかけで、犯罪被害者救援基金という基金の申請をしていました。これは、犯罪被害者の遺児に対する奨学金です。しかし、平成23年12月16日に不採用の通知が来ました。『あすの会』の弁護士の方も「残念でした。」と、私も非常に残念な思いでした。
以上のように、周りの方々からも様々な支援がありました。被害者の方が事件に遭っても安定した生活ができるということを考えるきっかけにしていただければ、と、思っています。
妻は子どもが大好きで、夢中で子育てをしていました。子どもたちが寝ているとき、「子どもは私の宝物」と、話していました。弟の嫌がらせで4年半苦しめられ、妻はこんな生活から早く解放されたいと願っていたのですが、その思いももはやかないません。長男は母親を助けられなかったことをいまだに後悔しています。長男は柔道部に入っていたのですが、「僕があの時、柔道着でナイフを落としておけば、ママは助かったのではないか。」と、何度も繰り返します。この事件の苦しさは言葉では表すことができません。
事件後、子どもたちの様子も変わり、「お父さん、死なないで。パパが死んだら、俺たちどうしてよいかわからない。」と、不安がって突然泣き出すことがあります。「パパが死んだ夢を見た。」とか、「怖い夢を見た。」と、言うことがあります。子どもたちは、この事件で心を乱され、今も精神科治療が続いています。子どもたちも寂しい思いでいっぱいですが、私も心が苦しい毎日を送っています。今は遺骨となった妻に話しかけているのですが、返事が帰ってくることはありません。「子どもたちは、頑張って生きているよ。」と、話しかけますが、返事は帰ってきません。
子どもたちと一緒に妻のところへいこうと、何度も考えました。でも、生き残った子どもたちのためにも精いっぱい生きなければ、と、思っています。子どもたちが私の生きる支えになっています。
終わりに、現在の子どもたちの状況を少しお話しします。
事件後、早6年近くがたちました。皆さんは、6年もたっているので、心も体も元気になって元の生活ができていると思われますか?被害を受けるということは、年月で解決できるものではありません。
当時、小学1年生だった次男は中学2年生になり、中学2年生だった長男は社会人になりました。しかし、二人とも精神障害の2級の判定を受け、未だに精神科治療が続いています。長男は今年、成人式でしたが、友達もいなく一人でさびしく成人式を迎えました。次男は中学2年生になりましたが学校へは未だに私が送っています。
次男の将来の夢は、警察官になることです。事件以来、警察の支援がとても心に残っていたようです。このような事件を防止するために働きたいと申しています。彼も夢に向かって頑張ってくれると思っています。
犯罪被害に遭って、様々な思いをしてきましたが、周囲のいろんな方が支えてくださって、私達が今ここにあると思っています。犯罪被害について、今一度考えていただければと、思っています。
どうもありがとうございました。
※お寄せいただいた原文のまま掲載しています。
裁判とは司法とは誰のためにあるのでしょうか?
益社団法人千葉犯罪被害者支援センター
S・N
「犯罪被害者の声第10集より」
平成28年1月21日 判決の日
「過失運転致死傷罪 懲役6年」
これが飲酒運転、120Km以上での暴走、脇見運転、第一事故からの逃走といういくつもの危険な運転の中、原付バイクの息子に衝突し即死させた犯人への判決でした。
危険運転致死罪の判決を信じていた私達家族は耳を疑い、同時に加害者天国の現実を目の前に突きつけられた瞬間でした。
忘れもしません…平成26年5月27目、夜11時過ぎのことです。突然私の携帯が鳴りました。翔哉の通う大学の先生からでした。いつもとは違う神妙な声で「お母さん、落ち着いて聞いてください。鈴木翔哉が今、交通事故に遭い即死しました」とおっしゃいました。私はパニックになり「ワーツ」と泣き崩れました。心の中で「息はしてないの?」と思ったのですが言葉が出ませんでした。母が2階で寝ている主人に向かって「翔哉が事故で死んじゃった」と叫ぶと階段を転げ落ちる様に降りて来ました。
私は、この後から半年の間ショックのあまり記憶がありません。
裁判では私達は被害者参加制度を利用しました。
「直接、被告人に質問したら」と弁護士の先生に薦められ、被告人質問を私と母と二男の三人で、被害者側証人質問を主人が、意見陳述を私と二男で行いました。家族一丸となってこの裁判に立ち向かいました。
この制度を利用するのにはとても勇気がいりました。
実は私は事故の翌年から現実逃避をする様になり、翔哉は千葉で元気に大学ヘ行っていると思うようになっていたからです。そうしなければ自分を保っていられなかったのです。翔哉の事故の写真も長い間見ることができませんでした。見たら事故当日に自分が引き戻ってしまいそうで怖かったのです。
それに事故当日同行した兄に、警察官が「ショックが大きすぎるから、絶対に家族に遺体を見せないように」と強く言われていたこともあり、兄が写真を見ることを阻止していたことも理由のひとつでした。
しかし裁判を迎えるにあたり、現実を見なければ全力で戦えないと思い、写真を見るのは落ち込むためではなく、裁判で戦う力をもらうためだと何度も自分に言い聞かせ、兄や家族にも納得してもらい、平成27年12月9日に支援センターや中野区役所の方々立ち会いのもと、私が依頼している弁護士の先生にお願いして写真を見せて頂きました。
先生は今まで交通事故の写真を何枚も見てきたけれど1番酷いとおっしゃっていたので覚悟はしていましたが、この時立ち合いのみなさんが居て下さらなかったら私は取り乱していたと思います。とても心強かったです。
公判前手続きの時、検察官は裁判長から「危険運転致死罪にならないんじゃないか」と早々に言われ、やむを得ず予備的訴因で「過失運転致死罪」を追加しました。今思えば、この時から裁判官は危険運転致死罪などとは考えていなかったのかもしれません。なぜ裁判長が過失運転にこだわったかというと過去の裁判例では、制御困難なスピードが危険運転と認められるのはカーブや下り坂等の道路状況を前提にするからとのことです(図面だけ見ると一直線に見え、下り坂の程度や逆バンク等わからないが実際の現場は明らかな右カーブで下り坂。しかも逆バンクでした)現場を見ていない裁判官が机上で判断したことに驚きました。
そして、何より不快だったのは裁判の際、裁判官が入廷して席に座る時、右陪席裁判官と被告人の弁護士が笑顔で会釈をしたことです。
今から裁判が始まるという時にこの光景を見てしまいました。ここは通路でも歩道でもありません!法廷です。私達家族は裁判官に対して不信感を抱いてしまいました。
被告人は飲酒運転をし、第一事故を起こし飲酒がバレるのが嫌で(同乗者にも迷惑がかかる)逃走、被害車両が追いかけて来たので猛スピードを出し、後ろを気にしながら、ラーメン屋に右折して入ろうとしていた息子の運転する原付バイクと正面衝突しました。
息子はとても体格が良く、身長188cm・体重160kgです。10年以上柔道で鍛えた体です。現場にいた警察官が息子の友達に「これは自動車事故ではなく電車と衝突したような事故です。普通の体の子だったらバラバラになっていた」と言ったそうです。体の大きな翔哉だから何とか形は半分あったのだろうと言われました。
悔しいことに遺体の写真は採用されず、簡単なカルテのような線だけの人形(ひとがた)に損傷した所をピンク色の斜線が引いてあるだけの物でした。これでは事故の衝撃が伝わらないと思いました。せめて白黒写真、それでも駄目ならもっとリアルなイラストにしないと裁判官や裁判員の方には伝わらないと思いました。
実際の翔哉は胴体右半分が完全に切断されて離脱し、心臓、胃、肺、肋骨等が露出し、路面には小腸が数十メートルに渡って引きずられる様に付着していました。左足は膝から引きちぎられた様に切断された酷い状態でした。顎は潰れ、唇の両端が裂け、紫色に腫れ上がった顔。
指の肉も削げ骨が露出して、手も組めない状態でした。最後に手と足の爪を切ってあげたかった…
五体満足で生まれて来てくれた翔哉。それなのに…
翔哉は生前、友人も多く「気は優しくて力持ち」、弟のことが自慢で、私のことが大好きな子でした。後から聞いた話ですが、ある時友人から「マザコン」だとからかわれた時に、いつもは温厚で怒らない翔哉が「母さんから生まれて来て母さんのことが嫌いな奴なんているのか!」と初めて強い口調で言って友人達が驚いたと聞きました。今では私の宝物の言葉です。
検察側の鑑定人は「翔哉の原付バイクが仰角を持たずに水平に飛ばされて230M先の地面に落下した」と言っていました。でも、その鑑定は現場の痕跡とは合っておらず不自然な鑑定でした。そのため、裁判官が証拠として採用しなかったのだと思います。
また、EDRという聞いたこともない専門的な鑑定は解りにくかったのだと思います。もっと慎重に鑑定してくれさえいればたくさんの真実が解明され裁判員の方々の判断も違っていたと思うと残念でなりません。
翔哉は大学4年になり就職も内定し「これから」という時に被告人の「ムシャクシャしてた」という感情と行動で21歳という若さで命を絶たれてしまったのです。私があの日、あの時間に電話をしていたら事故に遭わなかったかもしれないという後悔。そして翔哉じゃなくて私が死ねば良かったのに…という想い…
翔哉、守ってあげられなくてごめんね…
裁判の時、被告人は涙を流し反省している様子を見せました。でも、私達の目にはそうは映らなかったのです。初日から入廷しても私達と目を合わさず頭を下げることもなく休廷になるとさっさと背を向けて部屋を出て行きました。
初めて私と目を合わせたのは最終日の被告人質問の時でした。私が翔哉の遺骨が入っているペンダントについて質問した時に初めて私の方を向いたのです。この質問をしなかったら最後まで目を合わせなかったと思います。そして被告人の弁護士は、事故のことより被告人の生い立ちや環境を長い時間を使って発言していました。それは刑の軽減のための策略の様に感じました。
私は犯人の犯した罪への量刑を決める裁判ではなく、犯人の罪を軽くするための裁判なのではと思ってしまう程でした。
被告人は話せます。翔哉は話したくても話せないのです。こんなに不公平なことはありません。事故の瞬間は被告人と翔哉しか知らないのです。
日本の法律は亡くなった人より生きている人のための法律なのです。
やはり「加害者天国日本」です。日本の司法には、本当にがっかりさせられました。
被告人は衝突した時のスピードは120kmと言いました。それは“高速道路で出した時のスピードと同じ体感だったから”という理由からです。
驚いたことに最終的なスピードの判断に、体感で感じただけの証言が使われたのです。
確かに先ほども述べたように私たち側の鑑定人の内容がわかりにくく、的を射ていなかったのは事実ですが、まさかただの体感速度の発言の方を信じるとは…
結果的に
★被告人が反省している
★身元引き受け人が居る
★第一事故の示談が成立している
★保険に入っている
以上の理由により判決が下った訳ですが、その時に裁判長が発した「120km程度」と言った言葉が胸に突き刺さりました。例え時速120kmだったとしても制限速度50kmの道路では決して「程度」などと言った軽い表現ですませられるようなことではありません。こんな納得のいかない判決になってしまい翔哉に申し訳ない気持ちで涙が溢れました。
色々なご縁があり、福岡の犯罪被害者遺族の方が中野区役所の方を紹介して下さり、そこから支援センターの方を紹介していただきました。
途方に暮れて身動きがとれなかった私達に、本当に良くしてくださいました。特に支援センターの皆さんは裁判の間も連日遅くまで私達に寄り添い、たくさんの資料作りや、相談にのって下さり全力でサポートしてくれました。
そして、私の親友は、体調の悪かった私の母が心配だからと、家のことを家族にお願いして、4日間の裁判に同行してくれました。第三者として彼女の存在はとてもありがたかったです。
今も支援センターの皆さんはじめ、たくさんの方に支えていただきながら息子の事故と向き合おうと毎日葛藤しています。
私の願いは社会の皆さん一人一人が飲酒運転をもっと重く受け止め「たかが一杯、まさか自分が」と思わず、一口でもお酒を飲んで車を運転したら、それだけで危険運転になるようにしていただきたいのです。そして被害者にも加害者にもならない社会が実現することです。
※お寄せいただいた原文のまま掲載しています。
性犯罪被害者当事者の思い
一般社団法人人権問題研究協議会
「人権相談室より」
私は生活に困っています。原因は離婚によるものですが、それ以外にも心身ともにボロボロになり、まともに働くことができなくなってしまいました。
結婚生活は15年でしたが、子どもはいません。同居していた姑たちには子どもができないことを咎められ、私ばかりが責められましたので、病院にも相談に行き、私は検査を受けましたが、正常でした。
夫の暴力が始まり、姑たちからも激しく罵倒されるようになりました。そればかりか、義父からは性暴力まで受けました。離婚をする手続きに入る頃になって、夫から、無精子症であることを告げられました。
私は家族のためにパートで働きながら、家事を一生懸命こなしてきましたが、耐えられなくなり、家を出て、今、姉夫婦の所にお世話になっています。
しかし、姉から家にお金を入れるよう言われ、少ない貯金はほとんど底を尽き始めました。姉もパートで働いていましたが、姉夫婦の子どもたちが途中から転がり始めたため、家計が苦しくなって来たようです。そんな矢先、姉の留守中に、義兄から性暴力を繰り返し受けるようになりました。義父からやっと逃れて来たのに、今度は義兄からもレイプを受け、もう、死にたくなりました。
姉に相談したら、姉から「あんたがその気にさせるようなことをしたからでしょ!もう、出て行きなさい!」と思いもかけなかった冷たい言葉が返って来て、とてもショックでした。
もう、誰も頼る人がいません。私はこれから、どうしたらいいんでしょう?私が悪かったのでしょうか?
→あなたは全然悪くないですよ。義父も義兄もあなたを傷つけたわけですから、あなたには何の責任もありません。責任を取るのは彼らです。彼らの性暴力に対して警察への被害届は出しましたか?
→「いいえ、身内なので、とても出せません。」「姉の家を出たいのですが、転居費用がありません。」
→社協に転居費用を貸してもらえないか聞いてみましたが、現在就労していないことと、就労先も決まっていないため、直ぐには難しいとの回答でしたが、福祉事務所で緊急小口として、貸し付ける制度がありますが、どうしますか?でも、50,000円までです。支援団体にも問い合わせたところ、某企業での社員寮付きの仕事を紹介できるとのことでした。一部屋に数人の女性たちと一緒に寝泊まりすることになるそうですが、どうしますか?
→「それでも良いです。紹介してください。お金を貯めてアパートが借りられるようになるまで頑張ります。話を聴いてもらえただけで今日は嬉しかったです。来た甲斐がありました。有難うございました。」
※お寄せいただいた原文のまま掲載しています。